
今回の記事は、若者と政治のキョリを近づける「学生団体ivote」の代表を務める私が2019年参院選に際して書き起こしたエッセイである。
主張は断定的な表現を用いていたとしても、せいぜい学部生の導く暫定解に過ぎない。温かい目でご笑覧いただきたい。
投票に行く人と行かない人の違い

投票に行かない人の主張に「1票では何も変わらないから、、、」とよく聞く。
その通りだ。1票で何が変わるであろうか。例えば若者、10代~30代が全員で投票に行けば、若者政策が実現するシナリオは想像に難くない。 マクロな単位で投票行動を起こせば変化が起きるかも知れない。
しかし、我々はどうあがいても個人単位で1票しか投票しえない。
我々が投票にかけるコスト。もっと言えば投票に先立つ判断に対してかかる思考のコスト。これを上回るだけの個人当たりに跳ね返ってくる利益を示した理論を私は知らない。(逆はダウンズの数理モデルなどが有名である。)
蓋し、投票行動を変化や、現実的な利益に結びつけて考えるには限界がある。
そもそも投票行動の目的を“変化”に置いてしまって良いのだろうか。我々は政治から利益を引き出すために投票に行くのだろうか。
投票率が低いと言っても、国政選挙の投票率が50%を下回ることはほとんどない。 なぜ人は投票に行くのか。 この問題に対する回答は極めて困難であり、一枚岩な回答で済ますのは不可能であろう。
ここで1つの考え方を提起したい。
人が投票する理由は、投票行動そのものに意義や責任を感じるからではないか。もしくは義務感といった程度の表現が妥当かもしれない。
言い換えれば合理性を超えて、義務として、あるいは責任として、社会の決定を担おうとする態度である。
では、この民主主義への信念はいかにして健全に育まれるか。例えば、1回の選挙というような一朝一夕に育まれるものではない。
もっと日常や文化のなかに根差していかないと健全に民主主義の信念は育まれない。これを実現して投票率を向上させているのが北欧ではないかと思う。(そのままの形で輸入できるか、すべきかという議論は別途必要である)
一方で、日常や文化のなかに民主主義を根差していくために、選挙を利用することも有効だと考える。
選挙を契機に政治に参加する価値や、社会との接点に気づきを与えて、主体的な態度へと変遷させる試みには意味がある。
投票がなぜ難しく苦しくすらあるか

さて選挙に際して、投票に行くこと、社会に関わることの価値を作りあげていきたい。
しかし、困った問題が発生する。投票に向き合った時、私は極めて難しくまた苦しくすら思うのだ。
投票先を選ぶ上では価値判断をせざるを得ない。それが私にとって、どうしても難しくて苦しい。
具体的に言えば、政権が良くやってるのか間違ってるのか。憲法を改正すべきか、しないべきか。消費税は増税すべきかしないべきか。
必ず導かれるべき答えはあるのだろうか。いや、ない。少なくとも私には分からない。それでも何か”答え”決めてしまわないと投票はできない。
どうしてこれほどまでに投票行動が重いのか。
なぜなら、強制力を伴った権力に結びついているからだ。そこに加担してしまうからだ。マックスウェーバーの言葉を借りるならば、まさに「悪魔との契約」である。
これこそが投票という決断を私に重く感じさせる。
悪魔との契約を誰かが担ってくれるのであれば話は簡単だが、民主主義は傍観者を許さない。
このように、投票行動は少なくとも私にとって簡単ではない。
それでも私は決断と責任から逃げるどころか、決断を一人の国民として背負う立場を選びたいとすら思う。もっと言えば、民主主義の価値を伝えていく。なぜか。
私がなぜ投票するか

私はなぜ投票するのであろうか。その重さを自覚しながら、自分がそうするのではなく、他者にまでそうさせようとしているのだから、投票の意義に関しては相応の説明責任があると言えよう。
投票行動を考えるには、民主主義に紐づけなければならない。
私が好んで良く引用する文章がある。高校の教科書にもなっている丸山真男の「である」ことと「する」ことだ。
主権者であることに安住し権利を行使することをしなければ主権者でなくなる、権利を行使することによって主権者である、ということである。
(中略)
民主主義が民主主義という制度の自己目的化を不断に警戒し監視し批判すること、つまり民主化するによって、民主主義であり得る。
丸山真男.1961.日本の思想
思うに現状が民主主義であることに甘んじ、それを検討し続ける態度を失えば、制度に従属的になってしまう。これは民主主義ではない。常に政治に対して主体的にある続ける態度によって民主主義である。
私は主体的な態度による投票で「民主主義をする」ことで、「民主主義である」ことができる。
民主主義が信仰であるならば、投票は救済を目的とする。言い換えれば、投票をすることは自分が民主主義者であることを証明してくれる。
さて、なぜ民主主義は信仰に値するのか。なぜ民主主義である必要があるのか。そこまでして民主主義にこだわる理由は何か。
必ずしも民主主義が理にかなっているとか、良い結論を出すとかを申し上げるつもりはない。
それでも民主主義に加担する理由は、理念への共感に他ならない。民主主義の本質は、自らの尊厳と、他者の尊厳に対する尊重にある。
※ただし、その民主主義の射程や範囲を決めるのに権威主義的にならざるを得ない面がある。その件に関しては機会を譲る。ここでの民主主義への共鳴は、日本の国や地域の政治にとりあえず限る。
権力に服従し、自分を何かに対して従属的な立場になさしめる非民主主義的態度は、ある意味で楽かもしれない。
しかし、私はそのような生き方を支持しない。共同体の決断に、主体となる立場を捨てずに、悪魔との契約を超えて、責任の一端を担う覚悟を背負う。
もちろん前述のとおり、この決断は私にとって断じて簡単なことではない。
しかし、投票は「それでも」という意志である。
国と自分との関係の上での、あるいは地域の関係のうえでの日本人としての生き方である。
今日まで受け継がれし国や社会や文化を、後世に育み繋いでいく過程において、私は民主主義で民主主義をつないでいきたいと思う。
さて、参議院選挙の投票が迫る。私は選挙に行く。貴方はいかがだろうか。
参考文献
- アンソニー・ダウンズ(著) 古田精司(役).1980.民主主義の経済論理.成文堂
- 丸山真男.1961.日本の思想.岩波新書
- マックスウェーバー(著)脇 圭平(訳).1980.職業としての政治.岩波文庫
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